【大悲】その4 善光寺まいり


その4 善光寺まいり
令和の御代になってから、毎年1月2日信州長野は善光寺にお参りするのが、近年の私の恒例となっている。お朝事に参詣するため、お日さまがのぼる前に参道を行く。本堂の向拝にある平柴村の高張提灯のあかりがまだともっていて、お正月の松が映えている。疫病の難で、参詣者みな一様にマスクをしていた年や、元日に能登で大きな地震にみまわれた年もあった。世の中はさまざまに変われど、如来さまは変わることなく、念仏する私たちをいつもやさしくつつみこんでくださっている。
さて、善光寺如来さまは、生身の如来さまと称される。あたたかな体温をおもちで、ときにはお話ししてくださるとも・・・。そんな如来さまを彼と一緒に感じたくて、ある年の神無月に彼と共に善光寺まいりをした。彼は、亡き母と兄の供養のためお朝事でご回向を申し込んだ。お朝事が終わると、仲見世通りで彼は家で待つ子供さんにおみやげを買った。
善光寺では、ご回向の際「現当二世安楽(げんとうにせあんらく)」と読み上げられる。私たちが今生きている世界と私たちの命が終わったのちの世界の二つの世が安らかであれという祈りが込められた言葉である。お念仏を申したからといって、悲しみや苦しみが消え去ることはない。悲しみや苦しみは、厳然として私の身の上にあるものの、お念仏を申す日々のなかで、身の上に起こる喜怒哀楽すべてがお浄土に往くための道しるべなのだと頂戴できることが、「現当二世安楽」という境涯なのである。
この二人での善光寺まいりで、如来さまのやさしさに包まれながら、彼とこの世で出会えたことにあらためて感謝し、どちらがさきに往くかはわからないが、お浄土で会う日を想いつつ、それぞれの旅路についた。
【ペンネーム 如海子】